
大嶽丸
大嶽丸(おおたけまる)は、伊勢国と近江国の国境にある鈴鹿山に住んでいたと伝わる鬼神。文献によっては鬼神魔王、大だけ丸、大竹丸などとも記される。山を黒雲で覆って暴風雨や雷鳴、火の雨など神通力を操ったという。大嶽丸の伝説は平安時代初期に起こった政変「薬子の変」が伝説化したものと考えられている。
出どころ: ウィキペディア「大嶽丸」(CC BY-SA 4.0)。記事の冒頭の要約。
歴史
平安時代初期の大同5年9月6日(ユリウス暦810年10月7日)、平城上皇が平安京を廃して平城京に遷都する詔勅を発したことで薬子の変が起こった。ひとまず詔勅に従った嵯峨天皇は坂上田村麻呂ら造宮使に任命するが、9月10日(10月11日)には三関に固関使を派遣、藤原仲成を捕らえて右兵衛府に監禁の上で佐渡権守に左遷し、藤原薬子の官位を剥奪して罪を鳴らす詔を発すると、造宮使の田村麻呂を大納言に昇任させる。このとき近江国へは小野岑守とともに田村麻呂の次男・坂上広野が派遣されている。9月11日(10月12日)早朝に上皇が薬子とともに東国に向けて平城京を発つ。田村麻呂は美濃道より上皇一行を迎えうつため文室綿麻呂の同行を願いて、宇治橋・山埼橋と淀市の津に兵を配置した。この夜、仲成が紀清成・住吉豊継の手により右兵衛府で射殺された。9月12日(10月13日)、上皇一行が大和国添上郡越田村(奈良県奈良市北之庄町・東九条町付近)に至ったとき、田村麻呂が指揮する兵に行く手を遮られ、上皇は平城京に戻り剃髪入道し、薬子は毒を仰いで自殺した。
一方では鎌倉時代初期(1195年頃)に成立したと推定される歴史物語『水鏡』によると、平城太上天皇が軍をおこして尚侍藤原薬子と同じ輿に乗り東国へ向かったことを大外記上毛野穎人が嵯峨天皇に申し、前日大納言に任命された坂上田村麻呂は宰相文室綿麻呂を遣わしてその道を遮り、藤原仲成を射殺したという。この頃より平城上皇の剃髪入道や薬子の自害までを中心とした薬子の変の史実と、伝説を交えた幻想的な虚構性とが錯綜しながら展開されていく。
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