
玉藻前
玉藻前(たまものまえ)は、平安時代末期に鳥羽上皇の寵姫であったとされる伝説上の人物。妖狐の化身であり、正体を見破られた後、下野国那須野原で殺生石になったという。
出どころ: ウィキペディア「玉藻前」(CC BY-SA 4.0)。記事の冒頭の要約。
歴史
玉藻前の伝説の成立期は室町時代前期以前であると考えられ、古くは史書の『神明鏡』(14世紀後半)、御伽草子の『玉藻の草子』(室町時代)、能の『殺生石』、『下学集』(1444年)などに見られる。『玉藻の草子』の諸本中、古い系統と考えられるものには殺生石説話が見られず、これは後に付加されたものと考えられる。この頃すでに玉藻前の前歴として斑足王の夫人および周の幽王の后の褒姒が挙げられているが、唐土・天竺の条が本格的に語られるのは、江戸時代の高井蘭山の読本『絵本三国妖婦伝』 (1803年 - 1805年)や 岡田玉山の読本『絵本玉藻譚』 (1805年)によってである。この際に殷の妲己もまた玉藻前と関連付けられ、玉藻前は九尾の狐の化身であるとされた。その後の文化文政期には玉藻前の物語が大いに流行し、松梅枝軒・佐川藤太の浄瑠璃『絵本増補玉藻前曦袂』(1806年)をはじめとする多くの作品が作られた。
玉藻前のモデルは、鳥羽上皇に寵愛された皇后美福門院(藤原得子)ともいわれる。摂関家などの名門出身でもない彼女が皇后にまで成り上がり、自分の子や猶子を帝位につけるよう画策し中宮待賢門院(藤原璋子)を失脚させ、崇徳上皇や藤原忠実・藤原頼長親子と対立し保元の乱や平治の乱を引き起こし、更には武家政権樹立のきっかけを作った史実が下敷きになっているという(ただし、美福門院が実際にどの程度まで皇位継承に関与していたかについては諸説ある)。
伝説の概要
以下には『絵本三国妖婦伝』に記載されている伝説を記す。
最初は藻女(みくずめ)と呼ばれたとされ、子に恵まれない夫婦の手で大切に育てられ、美しく成長した。
記事の「歴史」・「伝説の概要」の節から。長い節は700字で切っています——続きは記事で。